浄土宗 大窪山光久寺 

光久寺の由来

 
 平成31年 4月29日撮影
慶長のはじめ(三百八十余年前)、能代奉行大窪三河守光久の子、丹後光久の開基檀越の寺であります。当時、行であった性西法師を開山としております。
 縁起は、正保年中の災禍のため焼失いたしましたが、江戸中期の旅行家菅江真澄の紀行文「雪の出羽路」には、光久寺について次のように記されています。
 
「般若山の麓に大日如来堂あり、たいそう古い仏が安置されている。慶長のはじめ米代古川の港であるこの能代の奉行をしていた大久保三河守光久は、大日堂を修理しようという志もむなしく亡くなった。そして、光久の子大久保丹後が建てられたので大窪山光久寺とよばれるようになった。この大日如来のことは、たいそう古い書物にも書き記されてあるという。」(遊覧記、東洋文庫)

  むかしは、もっと海寄り(沖の口番所東方砂山)にあって、庶民はこのご本尊に礼拝し、御利益をお祈りしたことであります。海岸が浸食され、波や飛砂のため、能代公園下の清助町に移転しました。光久寺・ごんぢの寺があったことから、能代公園から清助町に通ずる坂を「ごんぢの坂」と今でも呼ばれています。
 昭和五十七年、清助町から能代市の寺町のなっている萩の台に移転して現在に至ります。
 
 
ごんぢの坂 



平成4年5月25日付広報のしろより

       能代の古木(30)
       五智の坂のケヤキ

 
市民から「ゴンジの坂」と呼ばれ親しまれている、能代公園前から清助町へ続く坂があります。
 
この名は、以前坂下角にあった光久寺の五智如来に由来します。また、江戸時代、公園の上に番所があったことから、唐船番所小路ともいわれたようです。
 
この坂の中ほどに一本のケヤキあります。優に300年は越えるといわれます。この坂はかつて清助町寄りの半分までは寺の墓地だったそうですが、明治に能代公園整備で、墓地が整理されてもこのケヤキは残りました。「五智の坂」とともに、往来する人々の歴史を見てきたと言えましょう。
 
言い伝えでは、昔、この坂にキツネが棲んでいて、夜な夜な化けては、坂を通る人を騙かしたもので、明治になってからも騙された人がいたそうです。キツネはこのケヤキの陰からでも出てきたものでしょうか。




光久寺の歴史

 年代  光久寺の出来事他  日本の動き
 ☆室町時代  
 永禄年間
(1560頃)
享保七年絵図に光久寺南側にあり。隣に天神社地あり。大光院初代の頃は六十八軒ありと。 (清助町立。下浜方面より清助町は能代の草創。)  桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を討つ。 
 天正17年
(1589)
秋田実李の臣大高傳右ヱ門能代城代になる。   翌年、豊臣秀吉北条氏の小田原城を攻略。
 慶長7年
(1602)
佐竹義宣の家臣大窪三河守野代奉行となる。   関ヶ原の戦いから2年後
 ☆江戸時代  
 寛永2年
(1625)
大日堂あり。当寺の基となる。   将軍家光、前年イスパニア船の来航禁止、
 寛永年間
(1630頃)
性西法師草庵。法師は西福寺良満の弟子となる。   将軍家光、紫衣事件、長崎で踏み絵始まる,鎖国令
 正保元年
(1644)
光久寺焼失。   将軍家光、オランダ風説書始まる、前年田畑永代売買を禁ず。
 万治元年
(1658)
三河守の子丹後、光久寺開基。五智如来を安置。   将軍家綱、前年江戸大火。
 寛文11年
(1671)
光久寺再建奉加を行う。本願主春景法師(能代市史稿)   将軍家綱、2年後分地制限令を発す。
 寛保3年
(1743)
清助町より出火。光久寺焼失。(能代最大の大火)   将軍吉宗、前年公事方御定書編修
 天明4年
(1784)
深浦荘厳寺僧聞笈(もんぎゅう)和尚、津軽藩主信明公により追院され能代に。光久寺にて死去。(奥羽地方一帯の大凶作、大飢饉)   将軍家治、2年前天明の大飢饉、3年後天明の打ちこわし、松平定信老中となる。
 寛政2年
(1790)
石像延命地蔵尊建立。   将軍家斉、人足寄場作る、寛政異学の禁、
 文化元年
(1804)
須田部落木像両大師建立。(菅江真澄能代に入る。)   将軍家斉、
 天保4年
(1833)
巳年の飢饉。船乗り紙谷仁蔵飯米を施す善行あり。   将軍家斉、天保の大飢饉
 天保7年
(1836)
石像釈迦仏建立安置。俗に汗かき地蔵と いう。  将軍家斉、翌年大塩平八郎の乱
 万延2年
(1861)
紙谷仁蔵引き臼の墓に眠る。   将軍家茂、前年桜田門外の変、翌年生麦事件
 ☆明治時代  
 明治12年
(1879)
百万遍講結縁、十六観音掛け軸作製。   大正天皇ご誕生、前年大久保利通暗殺、3年後板垣退助刺される。
 明治20年
(1887)
石像三十三体観音像コレラ死亡者のため造立。   大型の二輪車(自転車)が流行、2年度大日本帝国憲法発布。
 明治42年
(1909)
本堂大修理完成す。   伊藤博文暗殺、翌年ハレー彗星最接近
☆昭和時代  
 昭和5年
(1930)
 円光大師法然木像並びに宮殿造立  前年世界恐慌、翌年満州事変
 昭和24年
(1931)
十夜法要復興なる。   下山事件、三鷹事件、松川事件、翌年朝鮮戦争
 昭和29年
(1954)
百万遍大念珠八百顆を一千顆に増補   ビキニ環礁で水爆実験、翌年自民党、社会党結党
 昭和41年
(1966)
地蔵堂再建   日本の総人口が一億人を突破、いざなぎ景気、翌年三億円事件
 昭和57年
(1982)
本堂他清助町より萩の台に移転再建完成。   ホテルニュージャパンで火災事故、東北・上越新幹線開通
 ☆平成時代  
 平成8年
(1996)
千体地蔵尊増補中西タヨ他38名。百六十体余り寄進。   長野冬季オリンピック、小渕内閣成立
 平成10年
(1998)
山門・茶室兼客室新築完成。   橋本内閣成立、民主党、社民党結党
 平成14年
(2002)
26世新名幸広住職就任。晫應和尚退任。   日韓共催サッカーワールドカップ開催、北朝鮮拉致被害者帰国。





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