浄土宗 大窪山光久寺 

光久寺安置仏

 
   石像釈迦如来(汗かき地蔵)
 像高105㎝、台座を含めると165㎝の石の座像です。四季を通じて顔、肩、手などが汗をかいたようにぬれてみえることから「汗かき地蔵」として親しまれております。本来は釈迦如来です。ふくよかな顔立ちと身体が親しみを持たせてくれます。今から百八十年ぐらい前の江戸末期1837年(天保七年)の建立です。天保4年に巳年飢饉があり、無縁供養のためと考えられます。石は愛知県産で、佐渡で刻まれたものです。そのためか、石仏のみけんの百毫(びゃくごう)には金がはめこまれております。昭和24年の大火、昭和25年吾妻山噴火による地震、昭和58年日本海中部沖地震、その他禍福にも汗をかきます。

 
 お汗をかいた釈迦如来!
(平成23年1月1日)



汗かき地蔵


 ??? 仏さまは、お汗をかくと ほほえむ ???
   
お汗をかいていない時の仏さま  お汗をかいている時の仏さま 
 どうですか?  ほほえんでいませんか?






        千体地蔵

 像高15cmほどの千体の木彫地蔵さまです。江戸末期、あるいは明治年間に南からやってきた船乗りが安全祈願のために彫った、聞笈(もんぎゅう)和尚が彫ったなどの言い伝えがあります。江戸中期の1780年頃のことです。保存されていたのは八百体余りでしたが、平成8年に中西家はじめ多数の寄進者から献納され、現在は千体をこえております。海死供養、亡き人の供養など庶民の幸福を願う千仏供養であります。 

 
        乳の地蔵・箸の地蔵

 像高40cmほどの一つの石に地蔵さまの立像と座像が彫られた、二尊一体の石像です。年代は不明ですが、石材は福井県産といわれております。能代港には、昔、加賀、敦賀、越前、越後から人の往来があったことから、船で信徒が運んだものと思われます。一つの石に二体の地蔵尊が刻んでおり、夫婦円満のためにまつられたと考えられます。乳の出ない母親の願いは、幼子の歯の痛みにこの地蔵さんのご霊験をいただいたので、この名前が生まれたようです。昭和の時代までお参りが絶えなかったものです。


      三十三体観音像

 明治19年、コレラが発生して多数の人が亡くなり、その人々の霊を鎮め、慰めるため観音像を造り、おまつりしたのが当寺に安置している三十三体の観音像です。現在、当寺の境内、「千仏堂」におまつりしておりますが、最初に造立された場所は今の能代公園入口あたり、石の階段右側におまつりされてありました。現在の藤棚下周囲は共同墓地でした。能代公園創設の時に、清助町公園下にあった光久寺に移されました。 








          延命地蔵尊

 像高150cmほどの石の立像で、境内の「千仏堂」に安置しております。昔、当山に安置する五智如来に灯明を供養するひとりの僧がおりました。薄暗くなると、灯明を手にとって仏様に供養しようと来ますが、玄関に入るとその墨染め黒衣の僧の姿は消えたといいます。当時、当山は無住で堂宇も荒廃していましたが、灯明は皎々と輝いていました。人々は不思議に思い、門前に住む老婆に確かめたところ、この僧は門前のこの延命地蔵尊であったと伝えられております。江戸中期の1790年に建立されたものです。

     延命地蔵にまつわるお話
民話 五智如来庵に生きた旅の僧

 むかしむかし、凶作で町の人たちが、食べるものがなく大変困っていたことがあります。その頃一人の僧侶が町に入って托鉢に回っていましたが、程なく、住職がおらなかった光久寺五智如来庵に、毎日灯明があがり、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……・・・」とお念仏が聞こえるようになりました。門前の老婆が不思議に思い、ある日その僧侶にたずねると「諸国を回ってる旅の僧じゃ・・・」の一言でした。
 旅の僧の読経の声は有り難く、港の船は、思わずその歩みを止めました。船の上の人々はお経に耳を傾けながら一緒に手を合わせ、お念仏を唱えて海上安全や大漁を祈るのでした。また、その旅の僧は、粗末な衣をつけ鈴を鳴らして行をし、信者からの施し物を飢えで苦しむ町の人たちに分け与えました。また、暇をみては、飢えに苦しみ亡くなった人々の供養にと小さな仏の木像を刻んでいました。そして、その旅の僧は五智如来庵に住むようになったのです。
 歳月がたち、体力の衰えを感ずるようになった僧侶は、裏山の墓地で一層念仏の行に励みました。死期がせまる頃、僧侶は自らの首に綱を巻き、左右に引き縄をつけ子どもたちに持たせ、子どもたちに「南無阿弥陀仏」の念仏に合わせて自分の周りを歩くように話しました。僧侶は、鐘をたたき「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と唱えている内に綱がしまり、息絶えたのです。
 町の人々は、自らの修行に励み、人のために施しの行をした僧侶の死を悼み、いつまでもいつまでもお念仏を唱えていたということです。

※天明の大飢饉であえぐ窮民救済に奔走した「聞笈(もんぎゅう)」という義僧がおります。聞笈は口碑では能代五智如来堂で逝去したといいます。また、郷土史「能代の昔」に、「ある僧侶の死後、首に綱を巻き回って歩く遊びがあり、危険であるとしてお上から禁じられた。」という記事が掲載されています。聞笈の読経の声は有り難く、小さな仏像を彫っていたという古老の伝承もあります。海よりに位置している光久寺には、誰が彫ったのか千体地蔵も現存しています。これは、古老の伝承や史実から、昔語りとしてまとめたお話です。(平成15年2月浄土宗新聞掲載)



 
  善導大師立像・法然上人立像
 像高74㎝の木像で、本尊五智如来の前に安置しております。胎内札には、文化五戊辰年(1809年)正月二十五日建立と記されております。今から200年以上前のことです。向かって右の善導大師は口をあけて笑っておられ、左の法然上人もにっこりとほほえんでおられ、このようなにこやかな表情の両大師の像はめずらしいと思います。
 善導大師は中国の唐時代に、お念仏の教えを大成されたえらいお坊さんです。法然上人は、平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍し、善導大師の著書である「観経疏(かんぎょうしょ)」によって、阿弥陀仏の本願他力の救済を自覚して、浄土宗をお開きになりました。
 

法然上人(左)、善導大師(右)のお顔  
     


 



    法然上人座像及び宮殿

 宮殿の中でお座りになっている法然上人です。念珠を繰りながら、お念仏を称えている姿です。昭和5年に伊勢谷菓子司老母より寄進されたと伝えられています。すでに100年近くなりますので、痛んではきていますが、寄進された当時はさぞや美しい宮殿と法然上人であっただろうと推察されます。
 





      木彫りの六地蔵 

 樹齢500年以上の一本のケヤキに六体の地蔵尊が一緒に彫り込まれており、高さ約1m、幅50cm。能代市大町の庄司吉蔵さん(当時78歳)が、庄司さんから木彫りを習っていた友人が亡くなったことから、その供養のために40日で彫り上げ、光久寺に寄贈しました。
 六地蔵尊は、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)を巡って人々を救うといわれ、多くのお寺の境内にあり、庶民の信仰も厚い。
 






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   秋田県能代市 浄土宗大窪山光久寺  

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