浄土宗 大窪山光久寺 
光久寺安置・所蔵物

 

         五智札と版木

 左を五智札といいます。五智札は薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来、多宝如来を描いたお札です。江戸中期より、参拝した人が家内、海上安全、商売繁盛、無病息災などを願って持ち帰り、仏壇に飾ったもので、往年の市民が知るお札です。明治中期に廃止されておりましたが、昭和57年お寺の移転を機に、復活しました。光久寺に訪れる参拝客に無料で頒布しています。
 右は、五智札をはじめ、地蔵さま、観音さま、お経などの版木です。印刷技術が発展していない江戸、明治に使われたもので、一枚一枚手作業で印刷したことが偲ばれます。 





         三界萬霊等

 本尊五智如来を安置している須弥壇の正面に、「三界萬霊等」のご位牌を安置しています。
背面には次のように記されています。

          昭和九年八月廿八日大日本相撲協會
          男女川能代潟一行当地興行ニ際シ能代
          出身ノ故錦島三太夫追善供養ノ節此ノ
          位牌ヲ白木ニテ使用シタルニ依リ其ノ記念
          トシテ當光久寺寄進候也  
                       勧進元 水木 彌助


 三界とは、私たちが住む世界を三段階に分けたもので、欲界、色界、無色界をいいます。すなわち、三界とは私たちの住む世界全体を表します。萬霊は一切の生あるもの、精霊をいいます。
 昭和9年に相撲力士であった故錦島三太夫の追善供養を当寺で厳修し、その時の白木の位牌を三界萬霊碑に作りかえたもののようです。
 





             寺標

 明治時代に建立されたと思われる寺標で、高さ約170cmあります。石が割れたり傷んだりしてしまいました。
「五智如来慈覚大師御作」と刻まれており、五智如来は慈覚大師が作ったものと伝えられています。
 慈覚大師とは慈覚大師円仁(えんにん)(794~864)のことで、平安時代前期の天台宗の僧侶です。中国に渡って修行され、帰国後、天台宗第三世座主に就かれたえらいお坊さんです。829年から832年まで東国巡礼の旅に出たといわれ、山形の立石寺、松島の瑞巌寺、象潟の蚶満寺等の開祖あるいは中興といわれます。また、慈覚大師が刻んだといわれる仏像も各地に数多く残されており、当寺の五智如来もそのひとつと言い伝えられています。
 








         海死供養塚

 海で働く人々の信仰を集めたお寺であることを物語るものに、海死供養塚があります。明治4年の建立で高さ2m近く、側面には海で亡くなったと思われるたくさんの人の戒名が刻まれております。
 遠国より船でこの能代の地に来た人が、不幸にも病気や事故で亡くなられ、その人の供養を当寺が行ったなごりと思われます。


        百万遍念珠

 百万遍の念仏会を修する時に用いる大形の数珠で、当寺のものは長さ約22m、珠の数1080個です。浄土往生・先亡追善・除災招福のため、百万遍お念仏を称えることが大きな功徳となるとされますが、困難であるため、参拝者が輪になり、この数珠を繰り回してお念仏を称え、お互いの念仏の功徳を融通して、百万の念仏の功徳を受けるというものです。地域によってはお彼岸などに行われていますが、当寺では秋の「お十夜(じゅうや)法要」で行います。




    大窪丹後随身稲荷大明神

 当寺は慶長のはじめ(室町末期)に、能代奉行大窪三河守光久の子、丹後光久が開基したお寺ですが、その丹後光久は稲荷大明神を安置していたといわれます。昭和32年10月、袴田ハル女の発願により復興し、萩の台移転を期して、千仏堂に安置しました。家内安全、商売繁盛の明神として、先達の本願に答えるものであります。



    冊子 晫應和尚と光久寺

 前住職成田晫應和尚が書き残した随想、紀行文、当寺の説明文、新聞への寄稿文、お寺に残る古文書、当寺に関わる新聞記事などを、平成二十年に一冊の冊子にまとめました。A4版100ページで、記録として残すことによって、これまでの歴史が忘れ去られることのないようにと考えております。今後、当寺の記録としていろんな場面で活用に資することを願っております。





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   秋田県能代市 浄土宗大窪山光久寺  

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